| ランドマークエデュケーション コースの成果 |
涙の上腕二頭筋の巻
ブレークスルーテクノロジーコースに参加をした。 どちらかというと私はクールな方である、と思う。
しかし先輩があのくさいセリフを真顔で言ってくれていなかったら、今手にしている可能性と出会っていなかったと思うとジーンと来た。
先輩のくさい言葉を引用すると。 私がコースから得たものは、まさに太陽の光に隠されていた、無数の可能性だった。
コースからの成果は数えきれないほどある。 今は一つだけ書きます。
親父について。
私の親父はとんでもない親父であった。 東京下町生まれの下町育ち。 不動産会社を経営していた。
酒、たばこ、女性関係、博打、全てにおいて抜きん出ていた。 しかも、かなりの男前でもあった。 若い頃の写真を見ても映画俳優のようである。実際にそういう話もあったらしい。(後の母談)
そして、家にはいつも嵐が吹き荒れていた。 母はよく家出をした。 父はあまり家にいなかった。
でも良くありがちな悲壮感や暗さは家にはなった、母がえらかったのだと思う。
父と共に遊んだ記憶はわずかである。
千葉の海沿いの川に、はぜ釣りに行ったこと。 近くの店で天ぷらにして食べたら、とてつもなく美味かった。
家族で行った、やはり千葉の行川アイランド。 観客が参加できる機会があり、当然酔った父は舞台にあがりハワイアンの女性にキスされていた。 子供ながらに恥ずかしかった。
鉄火場(博打の場) 母の目をごまかすために私と散歩にみせかけたのだろうと今は分かる。 恐ろしい顔をしたその筋の人が白い布を取り囲む中、父の横にちんまりと座り、花札のピッシッという音、チンチロリンと転がるどんぶりの中のサイコロ、行き交う一万円札をじっと眺めていた。
私の仕事は、熱くなった父の元から消えていく一万円札を減らすために、隙をみては父のお札を座布団の下に隠すことだった。
帰り道、それをまとめて父に渡した。 父は無言で受け取っていた。
小学校の5年生の頃また喧嘩をして父が母を追い出した。 クリスマスの翌日の夜だった。 次の日、学校からもどった私は母が帰っていたらいいなと思い、庭にまわり窓から家の中を覗いた。 窓辺にはもらったクリスマスのプレゼントが置いてあり、その向こうに怖い顔をした父が座っていた。
母は数日後に帰ってきた。
中学生になった頃から父は家にいる日が更に少なくなり、会っても近寄るのが難しい雰囲気が常に漂っていた。
高校3年の5月に父は突然に他界した。 肝臓が根を上げた、父の破天荒ぶりにはついていけなかったようである。
それから18年の月日が経った。
コースに参加している最中にふと「俺は親父に触れた記憶がない。」と気づいた。 びっくりした。 僅かに一緒にいた時間も、手を握った記憶もないし、顔にも髪にも体のどこにも俺は親父に触れた記憶がいっさいない。
そして親父とのその関係が他の全ての人間関係に影響していると分かった。 私は人に頼ることをしない。 滅多やたらに人と深くかかわらない。 必要以上なことは決して言わない。
それはコースの中での小さな気づきだった。
コースが終わってすぐに、田舎に帰る機会があった。 コースで得た沢山の成果を母と話した。そしてこんなに母と会話したことがないというくらいに、昔のことについて、母について沢山会話した。
ふと思い立ち2階にあがり、アルバムにせず箱の中で乱雑に収まったままの我が家の古い写真を整理しようと思った。
写真の束を持ち上げ机に出し、またすくおうと思った時、目に映った写真を見て息を呑んだ。
束の一番上に親父の肩に乗り、親父の頭にしがみつき、赤みを帯びたほほをしている4歳の頃の私がそこにいた。 安心しきって力いっぱい親父の頭にしがみついている。
親父の顔はどうみてもやさしそうだ。
親父を決め付け距離をおいていたのは自分だった。
一瞬の出来事だった。 けれどそれは初めて親父を親父のまま受け入れられた瞬間だった。
それから私の人生は同じではない。 以前よりもっと人を身近に感じ、会話できる深さが増した。
仕事の成果は目に見える程に上がり、格闘がない。 何が違うかわからないが全く違うのである。
私はもちろん先輩に敬意を込めてこの成果を話した。 電話の向こうで「良かったナー」という太い声は泣いているようだった。
コースの成果は数え切れないほどあるが、私にとってこれは大事な成果です。
読んでくださってありがとうございました。
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